その人にピアスホールを開けてもらうのを待っている、わけない

言葉、経験、形態に整頓できない「その人」について、曖昧にしない方がいいと思った

好きになれてよかった

その人が大量に「好きだ」を突きつけてきて、好意にひたされて、自分のことをなげやりに扱わないようになった。その人が好きになってくれて、自分自身も少し好きになれて、気づいたらその人を好きになった。好きになれて嬉しかった。

人と話しているとき、ふと何もかもつまらなく、どうでもよくなるときがある。他人事、聞く意味のないこと。内容自体がとてつもなく退屈な訳ではない。でもなぜかとてもつまらないのだ。そういうときはとても空しい。わたしは、この人のことを大事に思えてないのだ、と思う。 前に話した、愛する→愛される→愛するの輪がなぜかブツリと切れてしまうのだ。大概、両方が愛を差し出しあって輪が回り続ける。その人のように二人分の愛を一人で持ってきて輪を繋げる人はそうそういない。わたしは、わたしから差し出していけるようになりたいのだ。自分のことを好きになって、友達をずっと好きでいられるようになりたい。そして、その人のことももっと好きになって、愛を返したい。

その人とは仲良くしているが、わたしがその人を好きだと言ったことは多分無い。わたしがその人がどんなに特別か大事か伝えたこともない。そろそろ、返し時かもしれない。驚くだろうか、喜んでくれるといい。

 

どうしてもこの感情に片を付けなければ、という脅迫感はもうない。なにも整頓できなかったかわりに既存の言葉に当てはめなくても置いておける寛容で広い場所を作れたからだ。その人はその人、わたしの大切な人だ。羨ましい、憎い、ウザい、そんなことも思うがそれでも堂々と好きだと言えるようになるくらい愛したい人なのだ。

マブダチ三人組

わたしにはsnsでとても仲良くしている人が二人いる。S氏と、その人だ。S氏は、氏とは呼んではいるが女の子で、その人の中学のときの知り合いだ。実は、わたしとS氏の顔はお互いの顔も知らない。

その人と、S氏とわたしはとても仲良しだ。在学中のS氏とその人はたいした交流もなく、ツイッターが繋がってるのも不思議なくらいだったらしいが、卒業後に仲良くなったそうだ。「よくわからないけど結果オーライ」なのだ。

その人とわたしの出会いの発端は、言わずもがなその人がガンガン絡んできたからだが、その人はその時のことを振り返って、「呆れられてるんだろうなとは思っていた」らしい。自覚はあったのか。わかっていながらあの行動だったのは、流石の精神力としか言いようがない。気づいたら流されてしまい仲良くなってたのでこちらも「結果オーライ」だと思う。

三人揃って最高!心底そう思う。ズッコケ三人組より相性抜群。顔も知らないけど、結果オーライだ。

S氏とその人とわたしでずっと先までこうしていたい。ずっとだ。時間も歳も場所もどんな人生になるか関係なく、この関係のまま、この関係が世界の全てになればいいくらい大好きだ。その人とわたし、と同じくらいでなくてその人とS氏とわたし、も好きなのだ。

大切だから執着するのが恋なら、この三人でいられることに恋をしている。春真っ盛りだ。

恋と呼ぶにはひねくれている

恋愛と友愛の線引きする力を持っていないから、こんな面倒なことになる。性愛が伴えば簡単だったのだが、生憎人生で一度も抱いたことがない。
考えることも疲れたので、安直に診断に頼った結果をここに書く。

シスジェンダー(性自認と身体性が一致している)
ノンセクシュアル(恋愛感情は抱くが相手に性的欲求は抱かない)
ミロマンティック(強い絆を感じている人にのみ恋愛感情を抱く)
パンロマンティック(全性に恋愛感情を抱く)

恋愛感情とは?わからないことには変わりなかった。
だが一つ思ったのは、わたしは性的欲求は抱かないにせよ、もし、もしその人が性的欲求を抱いてきたとしたら、わたしは受け入れてもいい。その人が愛してくれているなら、できる。できると思いたい。

その人に愛されたいだけで、愛してはいないのか?そんなことはない。
なら、その人に愛されなくても愛せるのか?無理だ。それは無理だ。愛する愛されるの輪を、自分が愛する方から切り出すのはとても難しい。

平素その人と接している時にずっとこんな感情な訳ではない。普通の友達通りの軽い親しみしか感じない時もある。その人がいないとダメだと思うのは大抵、後ろ向きな時。人恋しいだけじゃないか?でも誰彼構わず甘えたいとは思わない。そんな想像、ゾッとする。今でさえその人にだって泣きつけない。愛されている自信が無いから甘えられないんじゃないか?愛してくれれば誰でもいいのか?それはない。わたしの選り好みは激しい。平然と嫌いな人リストは更新される。自己愛が欲しくてその人から愛されたいんじゃないのか?その人ことも愛したいと思っている。好きな人の期待に応えたいと思うだけの健気さはある。

固まりきらない感情を無理に片付けようとしているのはわかっている。自己の方向からの意見だけでは解決しない。問題の一端にいるその人に聞く?ただの質問で済ましてもらえるわけない。一番あり得ない。一人で解決するなら忘れるか上塗りするかしかないだろう。この件に関しては、考えることは一人で解決するための手段では無い。

ありえない話

その人と、ひょんなことから恋愛について話したことがあった。その人は初恋はまだだと言った。意外だった。その人はわたしが思う通りにロマンチストであり、わたしが思う以上に冷静だったのだろう。その人は、良いなと思う人はいても、良いな以上の気持ちはなかったと言った。わたしは中学のときに初恋をした。クラスメイトの男の子で、少し仲もよかった。恋愛感情を打ち明ける勇気は出なく、卒業してそれっきりだ。でも元々自分の恋愛の話するのは苦手だったのでその人には言わなかった。その人も追及しなかった。

その時だったか、また別の時だったかはわからないが、その人が「女の子から告白されたら、嬉しいけど応えることはできないな」と言っていたことがある。「そうだね、好きでいてくれているのは嬉しいけどね」と返した。その時は疑いようも無くそう思っていた。その話をどちらが切り出したのか覚えていないのが今になってとても悩ましい。もしその人から切り出していて、もしそれがその人がわたしに「お前は応えてくれるのか?」とカマをかけるために聞いたのだったのなら?もしも話の域を出ないが、本当にそうだったならわたしは取り返しのつかないことをしたし、その人も取り返しのつかないことを言った。その人の言葉のために今わたしはその人への好意を認めさせるわけにはいかなくなった。でももう一度聞かれたら、今は違う答えを出すだろう。その結果その人が「ではわたしなら?」と聞くならわたしは勿論拒まない。拒む理由も感情も探したって見つからない。

これらの想像は全てひどく楽観的で、恋愛小説じみている。その人がそんな姑息なカマをかけてくるとは思えない。はじめから「友達になりたい!」と力業で押してきた人間がこうも感情にセーブをかけるわけない。違うなら、その人のことについて、まだ知らない側面があるということになる。その人がわたしの知らない側面があるのと同じようにあるなら。その時この状況を変える一言を言うのはわたしだと思う。その人はわたしがその人を失うのを恐れる気持ちを知らないだろう、わたしならその人から簡単に離れていくと思っているだろう。その人から伝えてくるリスクは、わたしからその人へ伝えるリスクよりきっと大きいと感じているはずだからだ。

だがこんなことは、いくら根拠付けをしても想像が想像でしかないことを強調するばかりで虚しい。事実ならこんな必死に裏を探す真似なんて必要ないのだ。

好かれているから好きになる

その人はわたしのことが大好きだ。自惚れ?自己暗示?違う。その人の口から(正確には文字からだが)はっきり聞いた。二回は最低聞いたことがある。軽いジョークでもノリでもなく、本気で、あなたは最高だ!と。

今までで一番衝撃を受けたその人の誉め言葉は、

見た目好き

だった。理解不能すぎて、え?の一言しか思い付かなかった。しかも説明も入ってきた。人に不快感を与えていないかという最低限のラインを越えることを目標にしているわたしは、自分の顔を好き認定されたことは他人事レベルで実感がわかなかった。でもしばらくすると沸々と嬉しさと自己肯定感が出てきた。小さかった頃みたいに、見た目に関して卑屈さ皆無で嬉しい気持ちをまた持つことがあるとは思っていなかった。

上の衝撃発言からはかなり経つが、最近もまた似たような発言をされた。今は衝撃というより、こしょばゆい発言として受け止めている。その人と同じ意見を持つほど能天気にはなれないが、その人は見た目は好みの問題だから、誰かの好みなら大勝利でしょと言っていたので、なるほどわたしはわたしの大勝利ではなくてもその人の大勝利にはなれたのか、と思った。その人はわたしを納得させたいから説明しただけなんだろうが、しっかり受け止めやすい地盤作りからしてくるあたり、無自覚褒め上手だ。

見た目の話に片寄ってしまったが、その人は言うまでもなく内面を褒めるのも上手い。好きを言葉にするのに躊躇いがない。良いものは褒められないほうが変、そういう考えなのだろう。

実際自分が周りと比べてとびぬけてクズ、なんてことが無いのはわかっている。ただ自分のこととなると欠点はすぐ目につく。生活の端々に出てくる。長所もわかっているつもりでも欠点が気になるのは、◯個を越えたらダメ、と無意識に欠点を絶対評価で判定しているからかもしれない。長所と欠点で長所のが多ければオッケー。そう相対評価していかなければ詰むに決まっている。詰んでいる絶対評価から抜け出せないから、自分自身を褒める対象に上手く含めることができない。だから外からの誉め言葉は貴重だ。特にスコア化できない分野に関しては。その人は褒める頻度と中身が多い上に説得力を持たせてくる。エキスパートすぎる。

その人が褒めて甘やかすから、その人が好きだ。

 

きらいだ

ふと開いたsnsで、その人が合格連絡をしているのをみた。浮かれてる。とても嬉しそうだ。

は~氏ね~~~

淀みなく思った、バカ軽くて一片の遠慮も愛着も無い言葉。頭から水ぶっかけられたレベルで冷静に感情が出てくる。

あ~~きら~い~~~~~~

こんなこと何度も思ってきてるし自分の性格も把握しているから、「こんなひどい風に思っちゃうなんて!友達なのに!ごめんねこんなわたしで...うぇえええん」なんて道徳満点人間みたいなおやさしい気持ちには微塵もならない。バレなきゃ何思ってても問題ない。そういう考えだ。

別にその人がしたことはなにも悪くない。普通にまあするよね、ずっと目指してたもんな、どうぞどうぞ。はい良かったね。そう思うが、は~~氏ね~~~くらいナチュラルに出てくる。こっちの神経の問題だからその人はなにも悪くない。ただこれで思い出した。その人のこと普通に嫌いになるとき、ガンガンある。そしてそういうとき、普段は触れないようにしている核心、その何倍も自分自身のことが嫌いなことが透けてくる。自分のことが嫌いなのを誤魔化すためにその人に嫌いを押し付けてるのかはわからない。

 

こういう感情だけは明白にラベリングできるし手間取ることなく認識できる。こうやって文字化するのも楽々だ。もちろんこの後どうやって対処していくのかもばっちりわかっている。出てくる頻度が高くて、馴れてる感情なのがこれか。呆れて鼻で笑ってしまった。

 

勝手に特別になりやがって

その人はピアスをつけている。ピアスの話になるとき、出掛けた先でお揃いのデザインでその人がピアスを、わたしがイヤリングを選んだとき。「ピアスあけようよ、あけてあげるよ」、何回か、その人の口から聞いた。あけなかったし、今もあいていない。無用心にひっかけてケガする自信があるので、あけない。

最近、全然別の場所の全然別の友達からも「あけたげるよー」と言われた。

ちがう、わたしのピアスホールをあけていいのはその人だけだ

間髪いれずにそう思っていた。びっくりした。自分で思っておきながら、とてもびっくりした。どうしてそう思ったのか全くわからなかった。

でもあけるなら、その人にあけてもらいたい。そうしてピアスをつけて思い出すのはその人のこと。悪くない。あけないけど。

 

ともかく、知らないうちにその人がそういう特別枠に入っていたことを今さら気づいた。